曹幹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/15 08:16 UTC 版)
| 曹幹 | |
|---|---|
| 続柄 | 武帝皇子 |
|
|
|
| 全名 | 曹幹 / 曹良 |
| 称号 | 趙王 |
| 身位 | 侯→公→王 |
| 敬称 | 殿下 |
| 出生 | 建安20年(215年)頃 豫州沛国譙県 |
| 死去 | 景元2年8月3日(261年9月14日) |
| 配偶者 | 不明 |
| 子女 | 不明 |
| 父親 | 武帝 |
| 母親 | 陳夫人 |
曹 幹(そう かん、215年頃[1] - 261年9月14日[2][3])は、中国三国時代の魏の皇族。曹操(武帝)の子。諱は良とも作る[4]。
生涯
建安20年(215年)、曹操と側室の陳姫との間に生まれ、高平亭侯に封ぜられた[5]。生母の陳姫は曹操の愛妾の一人で、曹丕を太子とする際にも力添えがあったという[6]。
建安22年(217年)、頼亭侯に改封され、同年のうちに弘農侯に改封された[7]。
建安23年(218年)、母の陳姫が薨じたため、曹操の命により王夫人に撫育された[8]。
建安25年(220年)、曹操が危篤となると、曹操は太子丕(のちの文帝)に「この子(曹幹)は三歳で母を失い、五歳で父を失う。お前に託す」と遺命した。曹丕が帝位に登ると兄弟の曹植らを疎隔したが、曹幹は厚遇されたという。幼かった曹幹はいつも曹丕のことを「阿翁(あおう、お父さん[9])」と呼んでおり、曹丕は「私はお前の兄に過ぎぬ」と返したが、その様子を哀愍してしばしば涙を流した[10]。
黄初2年(221年)、爵位を進められて燕公に封ぜられ、翌3年(222年)には更に爵位を進められて河間王に封ぜられた[11]。
黄初5年(224年)、楽城県王に改封され、翌々7年(226年)には鉅鹿王に改封された[12]。
太和6年(232年)、趙王に改封された。なお、曹丕は崩御に際し、曹幹を厚遇するよう遺詔したため、曹幹は明帝(曹叡)より常に恩遇を賜っていたとされる[13]。
青竜2年(234年)、賓客と密かに交際したことが露顕し、有司に奏上された。明帝はこれを受け、曹幹に「『易』には「国を開き家を継がせるが、小人を用いてはならぬ」(開國承家小人勿用)とあり、『詩経』には「大車は塵を立てる」(大車惟塵)との戒めがそれぞれ記されている。太祖(曹操)が天命を受けて事業を創始して以来、治乱の根源を深く見極め、存亡の機微を鑑みて初めて諸侯を封建した際には、極めて慎み深い教訓を授け、天下の名士を輔弼につけられた。常に馬援の遺戒を称え、諸侯と賓客との私的な交通を厳しく禁じ、それを禍事を犯す者と同列に扱わせた。如何してこれが骨肉の情を薄くするためであろうか。ただ子弟に過失を犯させず、士民に害を受けた後悔を抱かせぬためである。高祖(曹丕)が践祚するに及んで、万機を慎重に処理し、諸侯は朝廷に参朝してはならぬとの法令を重ねて明示した。朕は「常棣」(じょうてい、『詩経』の一篇)に見える兄弟愛に感じ浸り、「采菽」(さいしゅく、『詩経』の一篇)の義を嘉し、また「詔さえあらば京都(すなわち洛陽)に赴いてよい」とあることにもより、諸侯に朝聘(諸侯の天子への朝見[14])の礼を許した。ところが楚王彪・中山王袞はいずれも私的交通の禁を犯し、趙宗・戴捷らはみな罪に服した。近頃では東平王徽がまた属官に寿張(兗州東平国の県名)の役人を殴打させ、有司がこれを奏上したため、朕はその県を削減した。今、有司は曹纂(曹休の子)・王喬(王翁の子)らが九族の節会に託つけて王家に集会し、あるいは時を誤って会したことはいずれも禁令に觝触するとしている。朕は思うに、王(曹幹)は幼少より恭順の素質があり、しかも先帝の顧命を受けた身である。ゆえに恩礼を厚くし、それを後代まで及ばしたいとも思っている。況してそのことが王自身の身に近く関わる場合なら尚更である。そもそも聖人でなければ、誰に過失がないといえようか。既に有司には王の罪を赦すよう詔してある。古人曰く、「見えぬところでこそ戒慎し、聞こえぬところでこそ恐れ慎むべきである。隠れたものほど顕れやすく、微細なものほど顕著になる。ゆえに君子は独りの時こそ慎むのである』(『大学』に見える「君子は独(り)を慎む」の語[15])と。叔父よ、どうか先聖の典範に従い、また曹纂らは先帝の遺命による者であることを思い、戦々兢々としてその地位を安んじ恭しく守り、朕の意に適うようにせよ」と記した戒めの璽書を下賜した[16]。
以後、曹幹は明帝の景初・高貴郷公(曹髦)の正元・元帝(曹奐)の景元年間にたびたび邑を加えられ、これまでの分と併せて五千戸を領有するに至った[17]。
脚注
- ↑ 楚王・曹彪は251年王淩の乱に連座して誅されたが、『朱建平傳』によればその享年は57であり、これより生年は195年と推定できる。南朝宋の裴松之が『趙王幹傳』に施した註よれば、趙王・曹幹は曹彪より20歳年長であったという。すなわち、その生年は曹彪の生まれた195年の20年後にあたる215年であると推定できる。また、同書で曹操(220年没)が死に際に「この子は五歳で父を失う」と述べていることからも、生年は215年か、その付近であることが分かる。
- 1 2 『三國志』魏書「三少帝紀」:(景元)二年夏五月朔,日有蝕之。秋七月,樂浪外夷韓、濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅,趙王幹薨。
- ↑ 西暦・旧暦への変換は兩千年中西曆轉換による。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」の註が引く魚豢『魏略』:幹一名良。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:趙王幹,建安二十年封髙平亭侯。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:幹母有寵於太祖。及文帝爲嗣,幹母有力。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:二十二年,徙封賴亭侯。其年改封弘農侯。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」の註が引く魚豢『魏略』:良本陳妾子,良生而陳氏死,太祖令王夫人養之。
- ↑ 白川静 / 普及版 字通『「阿翁」の読み・字形・画数・意味』平凡社、コトバンク。2026年5月15日閲覧。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」の註が引く魚豢『魏略』:良年五歳而太祖疾困,遺令語太子曰:「此兒三歳亡母,五歳失父,以累汝也。」太子由是親待,隆於諸弟。良年小,常呼文帝爲阿翁,帝謂良曰:「我,汝兄耳。」文帝又愍其如是,毎爲流涕。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:黃初二年,進爵,徙封燕公。三年,爲河間王。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:五年,改封樂城縣。七年,徙封鉅鹿。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:太和六年,改封趙王。<中略>文帝臨崩,有遺詔,是以明帝常加恩意。
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『「朝聘」の意味・読み・例文・類語』コトバンク。2026年5月15日閲覧。
- ↑ デジタル大辞泉『「君子は独りを慎む」の意味・読み・例文・類語』小学館、コトバンク。2026年5月15日閲覧。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:青龍二年,私通賓客,爲有司所奏,賜幹璽書誡誨之,曰:易稱『開國承家,小人勿用』,詩著『大車惟塵』之誡。自太祖受命創業,深睹治亂之源,鑑存亡之機,初封諸侯,訓以恭愼之至言,輔以天下之端士,常稱馬援之遺誡,重諸侯賓客交通之禁,乃使與犯妖惡同。夫豈以此薄骨肉哉?徒欲使子弟無過失之愆,士民無傷害之悔耳。髙祖踐阼,祗愼萬機,申著諸侯不朝之令。朕感詩人常棣之作,嘉采菽之義,亦縁詔文曰『若有詔得詣京都』,故命諸王以朝聘之禮。而楚、中山幷犯交通之禁,趙宗、戴捷咸伏其辜。近東平王復使屬官毆壽張吏,有司舉奏,朕裁削縣。(令)有司以曹纂、王喬等因九族時節,集會王家,或非其時,皆違禁防。朕惟王幼少有恭順之素,加受先帝顧命,欲崇恩禮,延乎後嗣,況近在王之身乎?且自非聖人,孰能無過?已詔有司宥王之失。古人有言:『戒愼乎其所不睹,恐懼乎其所弗聞,莫見乎隱,莫顯乎微,故君子愼其獨焉。』叔父茲率先聖之典,以纂乃先帝之遺命,戰戰兢兢,靖恭厥位,稱朕意焉。
- ↑ 『三國志』魏書・武文世王公傳「趙王幹傳」:景初、正元、景元中,累增邑,幷前五千戸。
- >> 「曹幹」を含む用語の索引
- 曹幹のページへのリンク