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- 二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。贈従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。 はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王(天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世・近世・近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。 その歌風は「やさしき歌」と評され、『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に計71首が入集した。後世、観世信光の能『紅葉狩』(室町時代中期)などに影響を与えた。羇旅歌(きりょか、旅情の歌)にも優れ、隅田川を題にした歌が『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)に撰出された。歌のほか、漢学の素養もあり、また書にも秀でるなど、万能の人であったことから、「名誉の女房」(「偉大なる女性」)と称えられた。 (ja)
- 二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。贈従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。 はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王(天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世・近世・近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。 その歌風は「やさしき歌」と評され、『新後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に計71首が入集した。後世、観世信光の能『紅葉狩』(室町時代中期)などに影響を与えた。羇旅歌(きりょか、旅情の歌)にも優れ、隅田川を題にした歌が『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)に撰出された。歌のほか、漢学の素養もあり、また書にも秀でるなど、万能の人であったことから、「名誉の女房」(「偉大なる女性」)と称えられた。 (ja)
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- 中務卿宗良親王 (ja)
- 後二条院権大納言典侍 (ja)
- 権大納言局 (ja)
- 贈従三位為子 (ja)
- 中務卿宗良親王 (ja)
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- 権大納言局 (ja)
- 贈従三位為子 (ja)
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- 『昭慶門院御屏風和歌』(『新後拾遺和歌集』秋歌上・291に同一歌) (ja)
- 『新葉和歌集』雑歌中・1202 (ja)
- 『玉葉和歌集』旅歌・1149 (ja)
- 『続後拾遺和歌集』秋下・381 (ja)
- 『昭慶門院御屏風和歌』(『新後拾遺和歌集』秋歌上・291に同一歌) (ja)
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- 『続後拾遺和歌集』秋下・381 (ja)
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- 七夕 (ja)
- ちりはてし のもりの なごりとも しらるばかりの 言の葉もがな(大意:ハハソ(ナラ)の巨木の森は、たとえ散り果ててしまったとしても、その跡がはっきりとわかるほどに多くの葉を残す。そのように、若くして散ってしまった偉大な歌人である亡き母よ。あなたの忘れ形見であると世の人に認められるほど、私の言の葉(和歌)も優れたものであったらと強く願うばかりだ) (ja)
- 月ならで うつろふ色も みえぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊(大意:永遠に輝く月とは違って、すぐに色褪せて移ろいゆくものなのですね。古い歌では、白菊は真っ白すぎて、月明かりの下では色が溶け込んで見えなくなるとか、初霜に紛れて見分けが付かなくなる、などと飾って言うものです。でも、今、庭に咲く白菊を見てみたら、初霜が降る季節の前だというのに、もう色褪せ始めて、月明かりの下でもはっきり見えるようになってしまいました――幾千世までも月のように輝き続けるあなたに見合うような、白菊の挿頭(かざし、冠につける飾り)を作ろうと思っていたのですが) (ja)
- 前大納言為定もとへ千首歌よみてつかはし侍りし時、贈従三位為子の事など思ひいでて申しつかはし侍りし (ja)
- ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし(大意:せっかく東国の隅田川に来たので、あの在原業平の有名な歌の真似をしたいと思ったところ、夜だから歌に言う「みやこ鳥」はいなかったので、都にいる私の想い人は無事かどうか、月に訊いてみました。けれども何も答えてくれず、ただ澄んだ月が川の上に輝くばかり。これでは都の友だちと一緒に見物しに来た甲斐もないのですが……) (ja)
- 淵は瀬に かはらぬほども 天の川 としのわたりの 契りにぞしる(大意:あの急流の明日香川は、昨日の淵が今日の瀬に変わるほどといいますが、ゆったりと変わらず流れるのが天の川。一年に渡って、川の水かさが変わらないように、離れ離れの恋人同士の想いも変わらない。それがはっきりとわかるのが、彦星が織姫に逢うため、一年に一度同じ日に天の川を渡る「年の渡り」の契りです) (ja)
- 嘉元百首歌の中に、旅 (ja)
- 七夕 (ja)
- ちりはてし のもりの なごりとも しらるばかりの 言の葉もがな(大意:ハハソ(ナラ)の巨木の森は、たとえ散り果ててしまったとしても、その跡がはっきりとわかるほどに多くの葉を残す。そのように、若くして散ってしまった偉大な歌人である亡き母よ。あなたの忘れ形見であると世の人に認められるほど、私の言の葉(和歌)も優れたものであったらと強く願うばかりだ) (ja)
- 月ならで うつろふ色も みえぬかな 霜よりもさきの 庭の白菊(大意:永遠に輝く月とは違って、すぐに色褪せて移ろいゆくものなのですね。古い歌では、白菊は真っ白すぎて、月明かりの下では色が溶け込んで見えなくなるとか、初霜に紛れて見分けが付かなくなる、などと飾って言うものです。でも、今、庭に咲く白菊を見てみたら、初霜が降る季節の前だというのに、もう色褪せ始めて、月明かりの下でもはっきり見えるようになってしまいました――幾千世までも月のように輝き続けるあなたに見合うような、白菊の挿頭(かざし、冠につける飾り)を作ろうと思っていたのですが) (ja)
- 前大納言為定もとへ千首歌よみてつかはし侍りし時、贈従三位為子の事など思ひいでて申しつかはし侍りし (ja)
- ことゝへど こたへぬ月の すみだ河 都の友と 見るかひもなし(大意:せっかく東国の隅田川に来たので、あの在原業平の有名な歌の真似をしたいと思ったところ、夜だから歌に言う「みやこ鳥」はいなかったので、都にいる私の想い人は無事かどうか、月に訊いてみました。けれども何も答えてくれず、ただ澄んだ月が川の上に輝くばかり。これでは都の友だちと一緒に見物しに来た甲斐もないのですが……) (ja)
- 淵は瀬に かはらぬほども 天の川 としのわたりの 契りにぞしる(大意:あの急流の明日香川は、昨日の淵が今日の瀬に変わるほどといいますが、ゆったりと変わらず流れるのが天の川。一年に渡って、川の水かさが変わらないように、離れ離れの恋人同士の想いも変わらない。それがはっきりとわかるのが、彦星が織姫に逢うため、一年に一度同じ日に天の川を渡る「年の渡り」の契りです) (ja)
- 嘉元百首歌の中に、旅 (ja)
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- 徳治3年(1308年) - 応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年) (ja)
- 徳治3年(1308年) - 応長元年(1311年)もしくは正和元年(1312年) (ja)
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- 藤原北家御子左流二条家 (ja)
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- 日本国皇太子妃 (ja)
- 日本国皇太子妃 (ja)
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- 後二条天皇典侍 (ja)
- 遊義門院(姈子内親王)女房 (ja)
- 後二条天皇典侍 (ja)
- 遊義門院(姈子内親王)女房 (ja)
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- Nijō Ishi.jpg (ja)
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| prop-en:画像説明
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- 『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)より「後二条院権大納言典侍」 (ja)
- 『名所和歌百人一首』(貞享3年(1686年)9月)より「後二条院権大納言典侍」 (ja)
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- 二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。贈従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。 はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王(天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世・近世・近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。 (ja)
- 二条 為子(にじょう いし/ためこ)は、鎌倉時代後期、二条派の代表的歌人。贈従三位為子(ぞうじゅさんみいし/ためこ)とも。歌聖藤原定家の嫡系子孫で、歌壇の大御所二条為世の娘。皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の妃。 はじめ遊義門院(姈子内親王)に仕え、さらに後二条天皇典侍を務めるなど重職を歴任した。これと前後して1300年代後半ごろから、為子と同じく和歌の名手である尊治親王と交際を始め、徳治3年(1308年)の後二条崩御に伴い尊治が皇太子となったことで、為子も皇太子妃となる。尊治とは仲睦まじく、第一皇子である一品中務卿尊良親王や、南朝最大の歌人である南朝征夷大将軍宗良親王(天台座主尊澄法親王)らをもうけたが、尊治の即位前に早逝した。為子の死後に即位した後醍醐は、二条派の庇護者となって振興に努めた。結果、後醍醐を敬愛し武家歌人としても傑出していた室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏らを通じ、同派は中世・近世・近代の500年以上に渡り歌壇を主導した。 (ja)
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