企業の最も重要な資産であり、事業価値を生み出す資本でもあるもの、それは「社員」である。従来、多くの企業では社員を「コスト」「労働力」として扱われていたが、今や社員は重要な「人的資本」と考えられるようになった。育成し、モチベーションを上げ、働きやすい環境を作り、会社への満足度を高めなければ競争力は維持できない時代になった。社員を“インサイド投資家”とみなし、社内IRを通じて経営と社員をつなぐ新たな視点について、日本IR協議会特任研究員・杉由紀氏に解説してもらった。
社内IRは「社内広報」とどう違うのか
社員は自らの人生資本を投資する「インサイド投資家」
IR部門が「社内IRを始めます」というと、「社内広報を高度化したもの」「社員向けに決算説明を行うこと」といったイメージを抱かれがちで、IR部門が生み出す付加価値として認識されにくいことが多い。しかし、この理解は社内IRの本質を捉えていない。社内IRと社内広報の違いは、情報量や説明の難易度の差ではない。決定的な違いは、社員をどのような存在として位置づけているかにある。
社内広報が前提とする社員像は、「情報を受け取る従業員」である。会社の理念や方針を伝え、共感を促し、組織の一体感を醸成することが主な役割だ。代表的な例として、社内報を思い浮かべる人は多いだろう。一方、社内IRは、社員を「インサイド投資家」として、外部の投資家と同等に扱う。
通常の外部向けIRは、投資家に対して「この会社に資本を投じる価値があるかどうか」を判断するための情報を提供する。財務データの変動の説明、戦略、成長シナリオ、資本効率、リスクの想定と対策――曖昧な説明や情緒的な表現は通用せず、判断に耐えうる情報が求められる。社内IRは、このIRの論理構造を、社内に向けて適用する活動だと考えると理解しやすい。
社員は、働いて給与を得る存在であると同時に、時間、スキル、キャリア、さらには将来の選択肢を会社に投じている。言葉通り、社員は自らの人生資本を企業に投資している「インサイド投資家」なのだ。にもかかわらず、社員が外部投資家よりも少ない情報しか持たず、経営の意図や戦略の背景を十分に理解していないとすれば、企業価値向上の観点から大きな機会損失と言えよう。社内IRによって、経営判断の前提情報を理解し、自ら判断し行動する主体としての社員を生み出すことが可能だ。
実際、欧米の一部企業では、外部投資家向けの決算説明会が終わると、ほぼ同じ構成で社員向け説明会を実施する例が珍しくない。理由は単純だ。社員の判断の総和が、企業価値を決めるという考え方が、組織の前提にあるからである。社内IRは、社員を「管理対象」ではなく、「価値創造の担い手=投資家」として扱うための活動なのである。
筆者が以前勤めていた欧州系金融会社では、会社のROEの目標値を上回った幅に応じてボーナスが上乗せされた。大した金額ではなかったが、決算が発表される度に一喜一憂し、なぜその数値になったのか、自社のビジネスの状況を考える良い機会になっていた。社員としてビジネス上の判断を迫られたとき、それが会社のROE向上のためになるか、いったん立ち止まって考える指針にもなった。
社内IRが求められる背景──人的資本経営と情報開示の義務化
近年、社内IRが注目されるようになった背景には、人的資本経営をめぐる環境変化がある。日本でも人的資本情報の開示が義務化され、企業は人材戦略やエンゲージメント、健康投資、D&I (ダイバーシティ&インクルージョン)といったテーマについて、投資家に説明する責任を負うようになった。
重要なのは、投資家が見ているのは制度があるかどうかだけではないという点だ。問われているのは、それらの施策が実際に組織の価値創造力を高めているか、言い換えれば「社員の行動が変わっているか」である。
たとえば、人的投資を強化していると開示していても、業務の進め方、人事評価制度、育成体制が従来のまま放置されていれば、社員の日々の業務が大きく変化することはないだろう。投資家から見れば人的資本は活かされていないと評価する。逆に、社員が会社の戦略や財務構造を理解し、チャレンジを評価する制度があり、そのためのスキルを磨くサポートが受けられれば、社員のモチベーションや行動に、そして一定期間後の業績に反映されるだろう。人的資本経営が機能していると評価されるのは、こういった会社だ。
近年のESG評価や統合報告の潮流を見ても、社内の状態の透明性が強く意識されるようになっている。従業員エンゲージメント、健康投資、D&Iといった要素は、もはや「社内の話」ではなく、企業価値評価の一部として扱われている。社内IRは、社内の状態を整え、説明可能な形にするための基盤である。
社内IRで「自社戦略に対する一体感」はなぜ高まるのか
理論面の裏付けも振り返っておこう。社内IRの効果を語る上で有用なのが、Line of Sight(LOS)という概念だ。「視界の通りの良さ」とでも訳せばよいだろうか。社員が「自分の業務が、企業の戦略や財務目標とどのようにつながっているか」を理解している状態を指す。LOSが高い組織では、戦略が単なるスローガンではなく、日々の判断基準として機能する。
たとえば、営業が利益率を意識して案件を選別し、開発が戦略的優先度に基づいてリソース配分を行い、管理部門が資本効率を意識して改善を進める。これらはすべて、LOSが高まることで生じる行動変化である。結果として、意思決定のスピードと質が向上し、戦略の遂行力が高まる。
逆に、LOSが低い企業では、どれだけ戦略を打ち出しても現場の行動は変わらず、戦略は実行されない。社内IRは、このLOSを高めるための最も直接的な手段であり、自社戦略に対する一体感を実質的に生み出す装置だと言える。
LOSの測定には、様々な手法があり、複数を統合して評価する企業が多い。社員のエンゲージメントサーベイ、目標管理システムで個人の目標が部門の目標や会社の目標と紐づけられているか(カスケードダウン分析や目標整合性スコア)、社内システムの閲覧頻度、上司と部下の1-1ミーティングのテキスト分析、タウンホールミーティングの参加率や反応などを組み合わせて使うことが多いようだ。
社内IRを推進することは、会社の戦略に対する社員の理解と納得感が高め、LOSを向上させる効果が期待できる。経営戦略の実行力を高めるために、最優先で取り組むべき人事施策でもあるのだ。
※本コラムは筆者個人の見解および分析に基づくものであり、所属する組織の公式見解を示すものではありません。
日本IR協議会特任研究員
杉由紀
ビジネス誌記者、外資系証券会社および国内系・外資系の資産運用会社アナリストを経て、アリアンツ・グローバル・インベスターズ・ジャパンで日本株式調査部長を務めた。現在は企業のIRアドバイザーを務めるほか、日本IR協議会特任研究員として、企業のインベスター・リレーションズや経営戦略策定等のアドバイスを提供する。ピクシス合同会社代表。